昭島市玉川町三丁目、JR青梅線東中神駅近くにある「八清通り」に足を踏み入れると、昭和の面影を残すレトロな大衆食堂やオンボロ具合極まるアパート群が立ち並ぶ中、ロータリーを中心とした放射状道路が伸びる一画があり、ここは何だと思っていたらロータリーの端に置かれた石碑にこの街の成り立ちが解説されていた。
戦前の昭和13(1938)年に軍需工場「名古屋造兵廠立川製作所」(後に陸軍航空工廠)が現在の昭和記念公園西側に置かれ、戦時体制に向けて工場は拡大を重ね、2万人もの従業員を受け入れる住宅地を急遽整備する必要が生じ、そこで白羽の矢が立った当時23歳の建設請負業「八日市屋清太郎」が当時一面の桑畑だった土地を整備して作られたのが当人の姓名を取って名付けられた「八清住宅」。しかし敗戦により軍需工場は米軍に接収され、工場従業員の為に作られたこの住宅地も民間に払い下げられ、その後は昭島市内屈指の商店街として栄えていたようだが、おおよそ高度経済成長期に発展が止まったまま、その当時の街並みを残している。